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伊達サオ

かつては徳化社と呼ばれたサオの主たる集落。サオ伝統の歌舞ショーのほかさまざまな文物の展示がある。原住民の風情いっぱいの伊達サオ商店街や鹿追市場ではショッピングが楽しめる。

玄奘寺

日月村から環湖公路沿いを西へ進むと、約4.8キロの地点に玄奘寺があります。ここは1965年に建立され、前方には拉魯島、後方には青龍山を望みます。風水的には「青龍戲珠」と称せられる最良の場所です。二階建ての廟には玄奘舍利子と釋迦牟尼の金像が祀られています。玄奘法師は唐の時代の高僧で、太宗の命を受け、仏典を求めてインドへ赴き、10年あまりの歳月を経て、帰国しました。650部あまりのお経を入手し、その内の75部を弟子と共同で翻訳し、1335巻を完成させました。これらの書物は中国における仏教の発展に大きく貢献しました。
日中戦争の間、日本軍は南京で玄奘法師の遺骨を運び出し、戦後、日本の埼玉県慈恩寺に奉納していました。その後、1955年にこの霊骨は中華民国政府に返還され、日月潭湖畔の玄光寺に祀られました。そして、1965年11月に玄奘寺が完成すると、霊骨はお寺の中に納められました。 玄奘寺は唐の建築様式を模したもので、正方形のタイルが素朴な風情を醸し出しています。境内には「国之環寶」と書かれた蒋介石元総統による扁額が掲げられています。また、寺の外壁には、玄奘法師が西域を旅した様子が描かれ、三つの碑文が刻まれています。これは左が日華親善記念のもので、真ん中は玄奘法師の伝記を書いたもの、右は日華仏教親善交流記念碑です。そのほか、門前には二つの石像、本殿前には太鼓が置かれています。

慈恩塔

慈恩塔は蒋介石が母親の王太夫人を記念した建てた。1971年4月に完工。海抜954メートルの沙巴蘭山(二龍山)山頂にあって、塔の高さは46メートルだから、塔頂の高度はちょうど1000メートルになる。外観は中国宝塔式の建築で、九層をなしている。上からは日月潭が一望できる。日月潭の周囲でもっとも視野のよいスポットである。
慈恩塔の前にあるのが蒋元総統の別荘。慈恩塔建築中に自ら設計したもので、二層をなし「歇山屋頂式」(反り返った屋根が層を成している)の屋根が美しい。設計図に蒋介石が最後に目を通して工事にかかったといわれるほど凝ったものである。1971年1月始めの竣工。慈恩塔より数ゲ月前に出来た。完成後、蒋介石はこの地を気に入って、たびたび訪れたという。
沙巴蘭山下方の湖畔には、かつて小さな黒い人が住んでいたという。サオの祖先が日月潭にきてしばらくは、そうした小人といっしょに仲良く暮していた。しかし小人たちは、サオの人たちに、決して自分たちの部落を訪れてはいけない、事前に知らせなく来たら、災難が発生すると警告していた。 しかしあるとき、サオの人が急ぎの用事でうっかり連絡しないで小人の部落に入ってしまった。小人たちはびっくり仰天して、木臼に座ったが、数人がはずみで木臼の上から落ち、その結果、尾っぽが切れてしまった。小人の頭目はたいへん怒り、サオの人たちを追っ払って、二度と来るなと悪態をついた。 なんと小人たちの秘密とは、尾っぽがあることだった。だから彼らは突然人が訪ねてくることを怖がっていた。人が来るときには、あらかじめ木臼の上に坐って、尾を臼の中に隠すようにしていたのである。サオは小人たちの秘密を暴いてしまい、以来、両者の往来を絶えたという。

玄光寺

玄奘寺から約2.5キロの距離にある玄光寺。ここは1955年に建てられ、玄奘法師の遺骨を祀っています。玄奘法師は唐の太宗の命を受けインドへ経典を探しに赴き、10年あまりかかって帰国しました。650部の経文を入手し、その内75部を弟子と翻訳し、1355巻を完成させました。これは中国における仏教の発展に大きく貢献しました。日中戦争の間、南京で日本軍は玄奘法師の霊骨を運び出し、埼玉県の慈恩寺に奉納していました。1952年に霊骨は台湾へと戻り、玄光寺の完成後、ここに奉納されました。
【青龍山步道】
この歩道は玄光寺埠頭から玄光寺まで階段が続いており、さらに玄奘寺まで歩道が延びています。仏教の聖地を訪れることができるので、「朝聖(聖地)歩道」とも呼ばれています。長さは約560メートルです。

水社壩堰堤公園(水社壩)

明-タン揚水発電所に位置し南郡を管轄するクラウド水の流れのドメインのMing-tan揚水の水は、北は、泥水のユニットは、膨大な作品工場の合計十三部分を機械、計量裝置まで1664ます。
12kWます。 るMing-tan揚水機械の総容量の裝置1602kW、初のアジア大の揚水発電所です。
明-タン揚水発電所からの第二工場のプールは、ダム下流約四キロ、システムを活用した水のクリークバレーの地形の建ダム日月湖としては、プール、太陽の急下水の水リークダムのプール、人工湖の夜間の余剰電力のプールからの水の吸着貯留層の上プール ピーク期間およびその上のプール水力発電、蓄のプールがあります。 脇山道を走行ビジネスや観光の拠點とし、山と湖の湖影が浮かび上が対戦。

龍鳳宮月下老人祠

日月潭の有名な国内外から湖と山、ここに来て、きっとみんなは思っ拉鲁島の月下氷人祠、しかし元で拉鲁島の月下老人のように、九二一地震島から、移し日月潭の住民の信仰の中心「龍鳳宮」が祀られています。住民によると、ここの月下氷人霊験あら、「早くは一ヶ月、遅い半年」には、夫婦の縁の民衆を求めたいなら、ここに来てからご縁。

文武廟

日本時代、日月潭のそばには二つの廟があった。水社村の龍鳳宮と卜吉村(現在のイタサオ)の益化堂である。やがて発電所の工事が始まって、日月潭の水位が上昇したため、二つの廟は撤去されることになった。廟は電力株式会社によって買い上げられて、それで得たお金で記念の廟が建てられた。1934年、二つの廟は合併されて日月潭の北側に再登場した。これが今日の文武廟である。 文武廟は中国北朝宮殿式の建築で、規模は大きく、壮麗である。廟は三殿に分かれる。前殿二楼は水雲宮で開基元祖および文昌帝君を祀る。中殿武聖殿は関聖帝君および岳武穆王を祀る。後殿大成殿は至聖先師孔子を祀る。文武廟大成殿は全台で唯一正門を開いた孔子廟である(一般の孔子廟は平常閉まっている)。廟によると、日頃から参拝客が多いため、出入りの安全を考えて正門を常時開けているという。大成殿には青銅の孔子坐像があり、台湾で唯一聖像を奉る孔子廟となっている。孔子のほかに孟子および子思という三尊神像があるが、これらはもともと中国大陸にあって、義和団事件の際に日本の狭山不動寺に運ばれ、その複製が文武廟に奉じられたもの。 廟の前の広場には二つの巨大な朱色の獅子が控えている。これらは新光保険会社の呉火獅会長の寄贈によるもので、当地住民は「呉火獅」と呼んでいる。